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久しぶりの横浜

父の命日なので 母と兄、甥っ子の健介と一緒に
横浜へお墓参りに行きました。

一時期、家族で横浜に住んでいたので、
兄が運転する車で向かいながら 懐かしくなりました。

父は都内に仕事場を持っていたので、
仕事の帰りによく母を迎えに来ていました。
母の仕事が終わるのを待って、母と私の3人で父の運転する車に乗り
目黒通りを下って、第3京浜にのって帰りました。
何度も何度も。
その道を通る時は たいていが夜で、混んでいました。
笑い話をしながらの時もあれば、
私が何かで怒られたりしてふてくされている時もあったし、
父の虫の居所が悪い時もありました。

横浜にもたくさん思い出の道があります。
父は歩くのと混んだ電車を嫌ったのと運転が好きだったために
私たち家族がどこかへ行く時は必ずといっていいほど
父の運転する車で移動しました。
三ツ沢から横浜駅の方へ抜けるゆるやかな坂道、
そこから見える下の方に広がる町並み。
目黒に向かう第三も懐かしい景色です。
朝、よく父に送ってもらいました。
目黒通りにのるまでは すいすい調子良く走れることが多かったので
少し高いこの道路から見える周りの景色が
とても懐かしかったです。
父はjazzとかが好きだったのですが
たまに、yumingのカセット(←カセットですよ!懐かしい!)に
替えてもらい、窓を開けて
気分よく歌いながら乗せてもらっていました。

父は“走り屋”で、私の記憶の中では
何台か乗り換えつつも いつもスカイラインに乗っていました。
私にはよくわかりませんが、エンジンとか、デザインとかが
かっこいいのだそうです。
革張りの固いシートは私にはけして心地のいいものではありませんでしたが。
母と結婚した頃は、ルノーに乗っていたそうで
もうだめだ、というところまで乗ったルノーを捨てるつもりで
乗り捨ててくると
数日後に警察から電話がきて、
あなたのと思われる車が置いてありますけど
大丈夫ですかぁ?と言われたそうです。
しかも、それを数回繰り返した、と言っていました。
・・・のどかな時代です。
いつだったか、父が新しいスカイラインに変える前日、
今まで乗っていて廃車になってしまうスカイラインに
自分で買って来た一升瓶の日本酒をかけていました。
父はお酒がのめなかったし、小学生の私にはなんの儀式かよくわからず
というか、普段、食べ物を無駄にすると、烈火のごとく怒られるのに
あんなことしていいの!?と
家の門のところの階段に座って、不思議な気持ちで眺めていた記憶があります。
よく走ったなぁ、とスカイラインに言いながら
父は お酒をかけつつ車のまわりをゆっくり一周していました。

入院をしていた頃、
もう、その頃は父の寿命は私たちにはわかっていたのですが、
せめて 健介が中学生になるまで生きていたいなぁ、と
ベッドの上で父がぽつりと言いました。
大丈夫よ!だから、がんばって!と私は言ったけれど
奇跡が起こるよりほか、あり得ない希望に、私は
うまく、言えなかった気がしています。
もっと力強く、もっともっと明るく言ってあげればよかった。

その健介もこの春に中学1年生になりました。
自分で選んで志望していた中学に 自分の力で入りました。
あの頃、細っこくてふわりとやさしい男の子だったのに
今や、声変わりもして、水泳部で毎日がしがし泳いでいます。
そして、父同様、機械に強くて
パソコンや、携帯の仕組みや裏技なんかを
家族のだれより、そのへんのどんな大人より詳しくて
私たちの一番の頼りです。
きっと今の健介と父が話したら、対等に専門的なことが話せて
話がつきることがないでしょう。
とても落ち着いて 
やわらかいのに理路整然と話ができる男の子になりました。
具体的な将来の夢も描き始めたようで
少しずつ少しずつ、まわりの大人の手の中から 離れていくようです。
それを私は まぶしく眺めています。
父は、そんな健介の姿を想像できていたかな?

4人で たわしでごしごし墓石を洗い、
水をじゃばじゃばかけて ぴかぴかに磨いて
お線香をくべたとき、
お墓の木々の間から すっと心地よい風が吹き抜けました。

こうやって、小さな家族がつながっていくんだなぁ、と思いました。
父の遺伝子を受け継いで
健介も 兄も、私も しっかり生きていきます。